前世と因果応報~殺されて何が学べるのか?

【質問】
虐殺、虐待、迫害、差別、いじめ、これらの被害者の学びは何ですか?殺された場合は何が学べますか?そして上記の加害者の学びは何ですか?殺さなかった場合は何を学ぶのですか?加害者は加害者になる為に産まれてきたのですか?被害者は被害者になる為に産まれてきたのですか?

※上記の質問に、一問一答式に前世療法的世界観に基づいて回答していきます。

【問】:虐殺、虐待、迫害、差別、いじめ、これらの被害者の学びは何ですか?
【答】:こうした苦しみの原因は前世で、同じことを他人にしていることに由来します。この因果応報が今生に返ってくることで、魂は、虐待される人の苦しみ、差別される人の苦しみを体験して学びます。一度、自分が苦しむと、他人の苦しみがわかるようになり、二度と他人を苦しめるような行為をしなくなるための学びです。もし、こうした体験で憎悪しか抱かない場合は、その魂はまだ未熟であるということです。残念なことなのですが、その場合は、その憎悪から再び他者を傷つけることになり、また新たな原因を作り出してしまいます。そして、その因果応報で再び苦しむということを繰り返します。その幾度もの繰り返しの中で、やがてその虚しさを悟る時が来て未熟さを卒業すると、愛や慈悲といった高次元の意識に目覚めていくのです。

【問】:殺された場合は何が学べますか?
【答】:被害者が殺される場合もありますが、これも命を奪われる者の苦しみ、悲しみを体験して学ぶことになります。そこからの流れは、次の生まれ変わりに引き継がれますが、最初の回答と同じプロセスになります。では、これを第三者がどう受け止めて理解するかとなると、放置するのではなく、救っていかなければなりません。それが人道的なあり方であり、愛や慈悲の発露です。死んでいく人々や苦しんでいる人々をそのままにしていてはいけないのです。

【問】:そして上記の加害者の学びは何ですか?
【答】:加害者は罪を犯してしまったことを魂では後悔します。魂は自己処罰を行い、それが因果応報の作用となり、今生の死ぬまでの間に、または、来世で、自分の身に同じ苦しみとなりふりかかります。罪を犯したということを学び、それを二度と繰り返さぬことを学ぶために、因果応報を身に受ける学びをするのです。学びとは「体験」と、体験からくる「悟り」(気づき)に他ならないのです。

【問】:殺さなかった場合は何を学ぶのですか?
【答】:上記の意味が、改心して悪事を思いとどまったという意味であれば、加害者は「自制」や「愛」を学んだのです。警察が来たので逃走したため殺人に至らなかったなどという意味であれば、ただ罪の軽重が変わるだけです。

【問】:加害者は加害者になる為に産まれてきたのですか?
【答】:違います。加害者は、本来は、その時点までに学び、悟り、気づき、そのタイミングで加害者にならぬために生まれてきたのです。具体的に言うと、親や先輩や先生や目上の人の教えや言葉、先人達の歴史や学問を学ぶことで、また、自分が生きていく体験の中で、「愛」や「慈悲」を学ぶ機会を、本来は用意されていたのです。それは与えられたチャンスであったのです。しかし、チャンスを生かせなかったために加害者となったのです。その失敗は、また次の生まれ変わりで学び直すことになるのです。試練を克服できず失敗すると、やり直しとなります。相手に与えた苦しみを自分が体験することで学び、愛や慈悲に目覚めるという修業をすることになります。

【問】:被害者は被害者になる為に産まれてきたのですか?
【答】:違います。被害者は、本来、その被害を回避するために生まれてきたのです。わが身にふりかかる災いとは、現実的努力や心のあり方を変えることで、大難を小難に変えたり、無難に変えたりできるものです。運命とは確定したものではありません。<未来は常に変化します。刻々の努力や心のあり方で運命は変化しうるものなのです。そういう努力の結果、それでも避けられなかった苦難があったなら、前世の因果応報であったと理解するべきです。回避しようのない乳幼児などの場合は、避けられない体験をあえて選んで生まれてきています。地震などの天変地変もこれに含まれます。それは学ぼうとする魂の意図によるものです。しかし、先にも述べましたが、それを第三者がどう受け止めるかは別問題です。あくまでもそれを救うべく愛に基づき行動すべきです。そして全力を尽くして救おうとした結果、それでも救えなかった場合は、魂の意図を理解することです。生まれ来たれる魂の目的は、愛を学ぶことであり、心の徳性を高めることにあります。そのために生まれ変わり、死に変わりして、魂を磨いているのです。因果応報とはそのための砥石として作用する法則です。どんな苦しい人生であっても、自殺せず最後まで生き貫くだけでも尊いことです。