占いに凝ることも占い師になることも危険

占い師とは、死後、あまり良い霊界に行けない職業の典型例の一つです。その多くは地獄に落ちます。なぜなら、人を間違った道に迷わせる罪をこしらえてしまうからです。占い師は、「指示待ち人間の大量生産」という罪を犯しているのです。人間は、試行錯誤して魂を磨くのであり、占い師の答えをきいて指示待ち人間になることは間違っています。生活修業もできてない霊格の低い人間が占いのテクニックだけを磨いても邪気が憑依して動物霊の入れ物に成り下がるだけなのです。

占い師になって生計を立てるなど、死後、どんな恐ろしい霊界であがないをするかを考えたらとてもできることではありません。もちろん、こうしたリスクをよく理解して、人を迷わせず、自由意志を阻害しないように細心の注意を払い、人の幸せのために誠心誠意尽くしているような占い師のかたがもし存在したとしたら、その人は例外といえるでしょう。わたしは寡聞にして、そのような占い師は存じ上げません。占い師もお告げする霊能者もいずれの道も邪道の商売なのです。

「易経」は四書五経の一つとして、生き方を学ぶための古典

あらゆる占いの元祖ともいうべき、「易経」という古典がありますが、易は本当は占いに使うものではありません。易は本文や解釈を熟読して、神羅万象の流れ方の自然の法則を学ぶためのテキストです。「易経」は四書五経の一つとして、生き方を学ぶための古典です。易の卦を出して占うような使い方はバカ者のすることなのです。「易経」の本当の読み方とは、そうではありません。「易経」は最初から最後までじっくりと熟読して、自然界の摂理を学ぶものなのです。つまり「論語」や「老子」のような使い方をするものです。使い方を間違えばどんな素晴らしい物も活きません。考え方を根本から変えていく必要があります。「易経」を本当に会得しているなら、易経でいう「君子は終日乾乾(けんけん)、夕べに惕若(てきじゃく)たり、厲(あやう) けれど咎なし。」ということが本当に実践できていなければなりません。できていないなら、それは「易経」を学んだとは言いません。表面的に触っただけでしかありません。「易経」とは生き方を会得するための古典なのです。

運命好転は積善によってのみ成しうる

易経や論語などはいつも座右の書として身近において、ヒマがあれば読み返して、文章を何度も咀嚼し、何度も解釈し、自分なりに深く理解していくまで味わって学び取るための本です。推理小説をざっと読みましたというような感じで読むものではまったくないのです。何度も何度も味読熟読し、初めて深意が会得できるものなのです。四書五経を学びましょうというのはそういうことです。「論語」、「孟子」、「大学」、「中庸」、「易経」ぐらいは、勉強しておくことが大切です。ほかに老子、荘子、菜根譚、言志四録、山鹿素行の中朝事実、吉田松陰の武教全書、橋本左内の啓発録ぐらいは読み込んでおきましょう。十年かけてるつもりで良いので少しずつ学び、本当の「道」というものを学んで下さい。そうすれば、占いなど必要なくなります。生きている時にどれだけ善徳を積み、どれだけ深く真理を会得したかで積善の果報によって今生の人生も好転して、さらには死後の行先はも決まります。しっかりと学び、あわせて日々の善徳を積みましょう。

この世で怠けているとどんな結末があるか

生活保護や障害年金などは社会のセーフティネットであり、日本はこれが行き届いている稀有な国の一つです。世界にはもっと悲惨な国も多いです。特別な状況においては政府が給付金や減税によって国民の窮状を救うことは当然であり、それを受け取ることは当然です。人生においてなんらかの困難に見舞われ、一時的に福祉のお世話になることはやむを得ないことであり、それは国民としての権利です。ところがこの制度にも抜け穴があり、中には、本当は働けるのに生活保護をもらう狡い人もいれば、障害年金をもらうとラクなので病気を治すことよりも現状に安住していこうとする人もいます。今回はこんな狡いことをしている人がどうなるかについてのお話です。正当な理由で福祉のお世話になる人のことではありません。本来、生活保護を受ける必要性がないのに、生活保護で安穏と暮らしている人は残念なことに、死後、地獄に行くことになっています。もちろん、本当に困窮して、やむにやまれぬ事情で生活保護となり、一時的にそれに頼っていても、そこから努力をして、また立ち直るような人は地獄など行きません。しかし、生活保護を悪意あるやり方で利用して、働けるのに働かず、生きているというのは、神様の目からみれば、泥棒であり、盗みの罪です。

この世には因果応報の法則が働いている

生活保護にしても、精神疾患の場合の障害年金にしても、それらは、まっとうに仕事をして働く人が止むにやまれる事情で生活に困窮する時、それを救うのが本来の目的です。その制度をうまく利用して狡いことをしている時点でそれは天の賊ですから、天罰(因果応報のこと)は避けられないのです。人間は生まれてきたら魂を磨く生き方をするのが正しい生き方です。そこには精進努力が伴い、自分磨きが伴います。本当は働けるのに、生活保護の制度を悪用する人は努力をせず、積善もせず、魂も磨かないで、ただ、国の金を盗んでいることになります。これは「怠けの罪」となります。生まれてきたのに魂を磨かなかったという天の罪です。ですから、死後、「怠け地獄」が待っています。怠け地獄に行くと、そこで数百年以上も単純労働をして修行することになります。数百年の地獄での懲役のあと、ようやく生まれ変われても今度は、生活保護などない貧困国の底辺の住民の一人に生まれ変わって、苦労することになります。日本のような制度の国に、もう一度生まれ変われることは、改心できるまではありません。

ズルい者、悪い者、冷酷な者には因果応報の裁きが

このような霊界の実情を知らないので、自分たちはずるがしこく生活保護を取得して得をした気分になっているのですがほんとうは恐ろしい破滅の道に堕ちて行っているのです。大切なことは、生まれてきたら、人は魂を磨かねばならないということです。人間は魂を磨くために生まれ変わりを繰り返しているからです。このことを自覚できた魂が、悟った魂ということになります。悟った魂の人は、人生において自分を磨いて高める生き方をめざします。学問や読書をしたり、技能を磨いたり、何かを習得する日々を送ります。そして、自分の人間としての実力を高めて社会に奉仕して積善をします。ほとんどの職業は、積善をするための道として活かされます。悟った魂ならば、仮に、一時的に、生活保護や障害年金を受け取らねばならない状況になったとしても、その環境の中で、少しでも、自己研鑽のために行動をするのです。学問や読書をしたりして自己研鑽をすることはもちろんですが、地域のボランティア活動や社会奉仕など何か、積善をしようとします。あるいは家の中にいても、炊事、洗濯、掃除、整理整頓などの家事労働を行うことで家族のために奉仕するのです。このように魂を磨くことを忘れず、自己修養と積善の二つの努力を少しずつでも行うなら、生活保護や障害年金の環境にいても問題は少ないです。そして、そんな心がけの人は、最終的には経済的に自立して、福祉を卒業できます。

努力するとき魂は磨かれ、積善は幸せの果報を招く

自分の向上のために時間を使うと魂は喜んで輝くようになります。その結果、運が良くなり、幸福感、充実感が増し、生きがいを感じられるようになるのです。人間は、何も努力せず、向上せず、怠惰に過ごしていると、虚しい気持ちになってくるものです。虚無感は、魂からのメッセージなのです。そのメッセージとは、「もっと磨いてほしい」という叫びなのです。虚無感を打ち破る方法は魂を輝かせることです。魂はどうすれば輝くか。それは魂を磨けば輝くのです。つまり、学問、研鑽、勉強、学び、見識を高める、他者への奉仕、人に役立つことをすること、などがそれに相当します。魂が輝けば守護霊とのつながりも強化され、結果的に邪気も祓いやすくなります。家でいる時間が多い人は、その時間の一部を読書など学問にあてましょう。そして、家の中でもできる積善として炊事、洗濯、掃除など家事をしましょう。そして、できるだけ社会への積善をしましょう。人間は魂を磨くために生まれてきますので、なにも磨くものがないと、魂が虚しさ、虚無感を覚えます。これが気分が落ち込む大きな原因です。