瞑想の弊害~無の瞑想は危険

ヨガ系の瞑想では、無念無想をめざします。そのために意味のよくわからないマントラに集中させたり、シンボルマークなどに集中させて、無念無想を作り出す訓練をさせます。これはきわめて危険な行為です。たしかに「静中の静」はそれなりに練習できます。しかし、瞑想中に静まった心も、世間の喧騒に出ると、たちまち乱され、決して「動中の静」につながりません。

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無念無想になると良いものも悪いものも侵入してくる

無念無想では、動中の静を維持するための魂の自由意志の発動が弱体化するのが最大の理由です。結果的に邪霊に憑霊されたりするリスクが高まります。人間の中にある神様の部分、その一つが「自由意志」です。意志の発動、愛念の発揮、叡智の働き、この意、愛、知の部分が神性であり仏性です。すべての文化、つまり宗教、芸術、学問は意、愛、知が具体的に発現したものであるということです。

涅槃寂静して輪廻の輪から逃れるという考えは誤り

これがわからないから、この世のすべてに意味がないと考えて、輪廻の輪から逃れるような発想が、小乗仏教系にはみられるということです。宇宙創造主の造化の働き(神道では造化三神で説明)、この地上世界を整えて美しく作り固めることはきわめて重要な神のご活動なのです。私たちはその一端を担うべく、自覚のあるなしにかかわらず、いわば神の御用を受け持っている存在です。その実行は、自分を幸せにし、周囲を幸せにし、世界を幸せにする具体的活動でなされる必要があります。

動中の静を悟れば瞑想なしで禅定できる

その覚悟と悟りがあると「動中の静」が会得され、瞑想や座禅をしなくても日常生活の中で、禅定していくようになってくるのです。因果応報の法則を理解し、自分がしたことは自分に戻ってくることを悟り、何があっても自分がそのあがない、報いをすべて受け止めて乗り越えていく覚悟をすることが大切です。そのうえで自分の自由意志に基づいて行動を選択することです。わたしたちは、何のために生きているのか。それは魂を磨くため、進歩向上のためです。そのために生まれ変わります。そのための転生であり、因果応報の仕組みです。

魂の成長は世のために良き活動をすることで加速する

そして、もっとも早く成長する方法は、自分のためだけに生きることを卒業し、世のため人のために、良き活動をすることです。無の瞑想は好ましくないということがわかったら、それではどんな瞑想が良いのですかと疑問に思われる方もいるかもしれません。実はもっとも安全でもっとも有効な瞑想とは、「お祈り」なのです。