魂は進歩向上するために転生する

魂とは、生まれ変わっている核のようなものです。
これをさして、仏性といったり、神性といったり、
神の子といったりしているのです。

霊とは魂の衣であり、霊の衣が肉体です。
私たちの意識はそのすべてに偏在しますので、
肉体の意識、霊体の意識、魂の意識がそれぞれあります。
それぞれ重きをおいているものが違います。

霊主体従という言葉がありますが、
その場合の霊には魂も含まれています。

肉体次元になれば、食欲も性欲も睡眠欲もあり、
怠惰願望、堕落願望もあります。
遊惰安逸は肉体の合理性ゆえの欲求です。

しかし、魂という次元になれば
魂の意図があります。

それは完全円満な理想的人格になることであり、
そして、多芸多才な万能自在の人間力を得ることです。

これが魂が進化するということであり、
その過程を「魂を磨く」というのです。

魂の願いと、自分の願いが合一すれば、
内なる神との合一であり、仏教的にいえば、
即身成仏といえるのです。

実際にはそこまでいくのは至難のわざです。
ふつうは、人心(肉体の欲求)と
道心(魂の欲求)がせめぎあうのです。

それで「書経」という古典の中に、
「人心これ危うく、道心これ微なり。」
などといって、道心を保持せんと修業するのです。

「好きなことだけしてればいい」
「ありのままがいい」
「がんばらなくていい」

こういうメッセージを言えば、耳に心地よいので、
皆が飛びつきます。
確かに「頑張り過ぎて過労死する」ほどの人には良薬です。

しかしながら、それ以外のほとんどの人間にとっては、
「エゴイズムの正当化」
「怠けの正当化」
「人のせいにすることの正当化」です。

それは「魂の願い」を踏みにじることであり、
「向上心は神の宝であり怠けは地獄への道」
だという、魂の世界を何もわかっていないということです。

魂は己を磨こうとして、この世に肉体という
不便なものをまとって、物理法則の中に
わざわざ生まれてきたのです。

魂にとっては生まれることそのものが
苦悩であり、試練でもあるでしょう。
それでも、「進化する喜び」を得るために、あえて
生まれ変わるのです。

魂にとっては、進歩向上する歓喜のほうが、
それ以外の苦悩を上回る重大事なのです。

前世療法の研究から判明した魂の存在理由を
皆様にお伝えした次第ですが、

巷には個人の体験からの偏った独自理論と
称する「阿片」のような甘い言葉で、

「好きなことだけしてればいい」
「ありのままでいい」「がんばらなくていい」
「自分のエゴに素直であればいい」

そう呪文のように言い続ける人がいます。
これは人生の部分的な局面においては
正しい場合もあります。

しかし、これで一生涯を通したら、
その人は人生の最後に大きな後悔をすることなります。

向上心ある生き方や美徳ある生き方を捨てさせて、
エゴイズムの冷淡な世界に人を迷導すれば、
死後、過ちをあがなわねばなりません。

いついかなる時にも、
「我が魂は、何を望んでいるだろうか」
という視点は忘れてはならないということです。

魂とは、いわば、身の内にいらっしゃる神様です。
心を研ぎ澄ませば、魂の意図は感じ取れます。

魂は向上したがっています。
魂は練磨したがっているのです。
進化したい、進歩向上したいのです。

「より良くしよう」というのが魂の声です。
これを王陽明は、「良知」と呼びました。
良知がめざめれば、正しき道がわかると教えました。

人生の本義というのは、
天寿を終えるまで「より良くしよう」と
励み続ける中にあるのです。
その方向に前進し続けていくと幸せは増大します。